本所吉良邸跡〜江戸東京博物館〜横網町公園(旧陸軍被服廠跡)

【関連サイト】 JR 総武線(平成15年撮影)
歴史点描 赤穂義士)吉良上野介 点描
歴史点描 関東大震災、東京大空襲


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京葉道路 本所松坂町跡の碑 京葉道路 本所松坂町跡の碑 

京葉道路の左側を東進し、両国シティコアの先の歩道橋の先にある。

昭和7年(1932年)に建てられた。碑文によると、関東大震災後の区画整理で由緒ある地名が消えることを惜しんだ、とある。
京葉道路 本所松坂町跡の碑 京葉道路 本所松坂町跡の碑 
京葉道路 旧吉良邸へ進む 京葉道路 旧吉良邸へ進む 

本所松坂町跡の碑から両国シティコアに戻り、歩道橋の先のJOMOのガソリンスタンドで左折する。
この歩道橋を渡り、本所松坂町跡の碑の反対側に芥川龍之介生育の碑がある。芥川龍之介は、築地本願寺近くの聖路加看護大学の地で生まれ、母の長兄の養子となった。
左折して旧吉良邸へ進む 左折して旧吉良邸へ進む 

ガソリンスタンドで曲がると正面に首都高7号小松川線の高架が見える。二つ目の道を左折する角に本所松坂町公園(吉良邸跡)の道案内がある。その先に両国3丁目郵便局の看板が見え、反対側が旧吉良邸(本所松坂町公園)である。以前はこの道案内が無く、右往左往して地元の人に聞いて初めて分かった。
旧吉良邸(本所松坂町公園) 旧吉良邸(本所松坂町公園) 

3週間後の本所松坂町版の義士祭に備えてか、改修工事中であった。
小さな稲荷神社であり、内側の壁に討ち入り当時の地図や、絵などが飾られている、少し分かり難い場所にある。吉良邸の見取り図を見ると、この公園の大きさとの比較でいかに大きかったが分かる。
本所松坂町版の義士祭 元禄市 本所松坂町版の義士祭 元禄市 

義士祭と言うと高輪泉岳寺が有名であるが、同じ時期に本所松坂町でも行われる。こちらは吉良上野介義央の領地だった吉良町の物産展も行われるほか、両国なのでちゃんこ鍋も食べることが出来る。
両国公園 勝海舟生誕の地碑 両国公園 勝海舟生誕の地碑 

吉良邸から東に進むと両国小学校があり、その東に隣接して両国公園がある。公園の東南角に勝海舟生誕の地の碑がある。
両国公園 勝海舟生誕の地碑 両国公園 勝海舟生誕の地碑 

勝海舟は、文政六年(一八二三)一月三〇日、本所亀沢町の父小吉の実家である男谷家に生まれ、七歳まで育ちました。幼名は麟太郎と言います。幕臣とは言っても下級武士だったため、苦しい生活を強いられました。
 万延元年(一八六〇)には、日米修好通商条約批准のため軍艦咸臨丸艦長として太平洋を横断、アメリカとの間を往復しました。 慶応四年(一八六八)三月、徳川幕府倒壊後の処理を一身に担い、新政府側の中心人物である西郷隆盛と会見しその結果、江戸城無血開城を果たして江戸の町を戦渦から救ったことは有名です。
 海舟は、成立間もない明治政府の土台作りにも手を貸し、参議兼海軍卿・枢密顧問官などを歴任し、伯爵となりました。
 明治三二年一月一九日、七七歳で病没しました。
両国公園 勝海舟生誕の地碑 両国公園 勝海舟生誕の地碑 

勝海舟は幼名を麟太郎と言い、文政六年(一八二三)二月一三日にこの地男谷精一郎邸内で生まれた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(一八六〇)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡来した。
慶応四年(一八六八)三月一三日、高輪薩摩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
 明治三十二年(一八九九)一月二十一日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去行年七十七歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。
両国公園 勝海舟生誕の地碑 両国公園 勝海舟生誕の地碑 
京葉道路 本所警察署 関東大震災慰霊碑 京葉道路 本所警察署 関東大震災慰霊碑 

本所警察署は、両国公園から京葉道路に出た左手にあり、緑の柱の下に殉職した警官の慰霊碑がある。関東大震災で最大の犠牲者を出した横網町公園(旧陸軍被服廠跡)は、本所警察署の近くで、一説では安全な横網町公園(旧陸軍被服廠跡)に避難するよう、当時の署長が指示したために被害が大きくなった、とも言われる。
京葉道路 本所警察署 関東大震災慰霊碑 京葉道路 本所警察署 関東大震災慰霊碑 
京葉道路 本所警察署 関東大震災慰霊碑 京葉道路 本所警察署 関東大震災慰霊碑 

右側の碑で、関東大震災の殉職者の他に、明治13年の凶悪犯逮捕、東京大空襲の殉職者など29柱を祀っている。
京葉道路 本所警察署 関東大震災慰霊碑 京葉道路 本所警察署 関東大震災慰霊碑 

左側の碑で、関東大震災、東京大空襲の殉職者を祀っている。
京葉道路 伊藤宗印屋敷跡 京葉道路 伊藤宗印屋敷跡 

 明治十二年(一八七九)に十一世名人を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を構えていました。将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の三家が持ち回りで世襲していました。
 三家とも初めは本所に屋敷を構えましたが、間もなく転居し、明治に入って宗印だけが戻ってきました。宗印はここで棋士の育成を始めます。後の名人関根金次郎もこの屋敷で腕を磨きました。さらにその関根に弟子入りしたのが本所生まれの名人木村義雄です。木村はこの屋敷でめきめきと頭角を現わし、現在の将棋の隆盛を築き上げました。
京葉道路 緑一丁目交差点で左折、清澄通りへ 京葉道路 緑一丁目交差点で左折、清澄通りへ 
清澄通り 江戸東京博物館 清澄通り 江戸東京博物館 

都営地下鉄大江戸線の両国駅は階段の下にある。
清澄通り 置いてけ堀・御竹蔵跡 清澄通り 置いてけ堀・御竹蔵跡 

この辺りには、幕府の資材置き場だった御竹蔵があり、その周りには掘割がありました。
 ある日、町人がこのあたりの堀で釣りをしたところ、たくさん魚が獲れたので、気を良くして帰ろうとすると、堀の中から「置いてけ!」という怪しい声がしました。逃げるように家に帰って、恐る恐る魚龍をのぞくと、釣れた魚が一匹も入っていませんでした。
 これが、本所七不思議の一つ、「おいてけ堀」の話です。話の内容や場所には諸説があり、おいてけ堀は「錦糸堀」との説もあります。

この碑は、江戸東京博物館側の日大一高の南の壁際にある。
清澄通り 日大一高 清澄通り 日大一高 

かつては日大三高と並び、甲子園常連校だった。
清澄通り 横網町公園(旧陸軍被服廠跡) 清澄通り 横網町公園(旧陸軍被服廠跡) 

東京には関東大震災や、東京大空襲の慰霊碑が多くある。多くの人が焼死したことで知られる旧陸軍被服廠跡である。当時横網公園として整備中であった。
清澄通り 横網町公園(旧陸軍被服廠跡) 東京都慰霊堂 清澄通り 横網町公園(旧陸軍被服廠跡) 東京都慰霊堂 
清澄通り 横網町公園(旧陸軍被服廠跡) 復興記念館 清澄通り 横網町公園(旧陸軍被服廠跡) 復興記念館 
清澄通り 横網町公園(旧陸軍被服廠跡) 復興記念館 清澄通り 横網町公園(旧陸軍被服廠跡) 復興記念館 

復興記念館前に展示されている。震災時の猛火と熱風で溶解した丸善ビルの鉄柱で、飴のように曲がりくねっている。
清澄通り 横網町公園(旧陸軍被服廠跡) 清澄通り 横網町公園(旧陸軍被服廠跡) 

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